今日は
コンスエグラ Consuegra の風車 を見た後、
トレド Toledo に向かう。 このコンスエグラに立ち寄ることにしたのは、昨日決めたことで、初めから予定していたものではない。 案内書を参考にして、トレドへ行く道を検討していたら、風車の写真見つけた。 それが、トレドへ向かう途中の町であることが分かったからである。
そして、その辺りは、ドン・キホーテ Don Quijote の生まれ故郷として有名になった、
ラ・マンチャ La Mancha 地方ということを知ったからである。 もちろん、実在の人物ではない。 スペインの作家
セルバンテス Cervantes の創作であるが、それでも、世界的に有名な人物であろう、知らない人の方が少ない筈である。
スペインと言えば、ドン・キホーテを思い出す。 また、それを観光の目玉の一つにもしているところから、風車は観ておいて損はないと思った次第である。
ところが、トレドは違う。 TVの世界遺産シリーズで、もう何度も観たことがあった。 トレドと言えば、その独特とも言える風景を思い出す。 今回のスペイン旅行で訪れたい候補地の一つでもあった。
§§§ スペインの人も良く働く
昨日、この日コ ンスエグラの宿に来たときに、私たちのチェックインやら部屋替えやら、一人で甲斐甲斐しく立ち回って世話を焼いてくれた兄ちゃんが、朝食の支度をしてくれた。
確か夕食のときも、数人の応援はあったものの、一番動いていたのも、この兄ちゃんである。 開店時から閉店まで、働き詰めのようで、それで疲れた顔を見せたことはなかった。
こういう働き者がスペインにもいるんだ。 のんびり屋が多いと聞いていたのとは大違いである。 この兄ちゃんがオーナーでなかったら、いい人材を得たと言えるだろう。
こういう接客業は従業員の人柄や態度で、評判を得たり、逆に、客を逃がしたりもする。 オーナーが見たら泣くだろうな、気がついていないんだろうな、と思うような接客態度の悪い店員や従業員を、私は何度も見てきている。
しかし、このような場合、往々にしてオーナー側に原因があると、私は見ているから、決してチクルようなことはしない。 ところが、この兄ちゃんのような場合、何とかして、"働き者"
だよと、オーナーに伝えてやりたい気持ちで一杯になる。
《余談》
話は脱線するが、近所のスーパーに駐車場整理のおばちゃんがいる。 車の出入りを、テキパキと、また、愛想良く、そして、声も良く出て、また、体も良く動くそうである。 いつ行ってもそのようで、家内がいつも感心している。 ええ人を雇ったなと、オーナーに言ってやりたいと。
駐車場の整理の仕事を軽んじてはいけない。 実は、お店の顔ともいえる重要なものである。 その人材の良し悪しによっては、客の出入りにも影響するであろう。 お店の誰よりも早く、お客様と接する仕事である。 お店のオーナーはそのことに気付いているであろうか。
大阪市の職員が交通整理に出れば、年収が一千万円にもなったそうである。 もしそれが本当なら、このおばちゃんの働きぶりも正当に評価してあげて欲しいものである。 何も考えずに、ただ旗を振るだけの人もいて、"指示通りに動くと、危なくてしようがない"
ということも何度も経験してきたから尚更のことである。
§§§ 鳥観 (とりみ)
ホテルの駐車場の近くの木には、
イエスズメ、カワラヒワ、
ゴシキヒワ がいた。 また、近くの街灯の上には、
シラコバトがいた。
§§ コンスエグラの風車
風車が、遠くに見える山の上にあることは、昨日から見て知っている。 赤茶けた禿山の上に、点々と白いものが見えた。 街並みの中に入ると、風車は見えなくなるものの、その方向を目指せば、瞬く間に通り抜けて、再び望めるようになる小さな町だ。 そして、周りは荒野の風景となり、坂道が山の頂上へ向かっているのが眼に入る。
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コンスエグラの城跡から見た風車
2005/04/21 Photo by Kohyuh
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丁度、風車が見渡せる山裾で車を停め、その美しい景色を眺めていた。 車外に降り立つと空気も爽やかで、心地よい。
その私たちの感慨にふける気分を現実に引き戻すかのように、2台の大型バスが通り過ぎていった。 日本人観光客を乗せたバスである。
このような辺鄙な田舎町で、観光バスは意外であったが、考えてみれば、ここに泊まることはないにしても、、トレドに近いことから、観光ルートになっているのであろう。 また、この時間帯であれば、トレドから来て、バレンシア方面に向かうのかも知れない。
観光バスの後を追うように、坂道を上っていくと視界が山肌に遮られて狭くなり、一旦、風車は見えなくなる。 そのまま、しばらく進むと、廃墟となった城跡が現れた。
その中も観光できる雰囲気であったが、車も人もいなかった。 まずは、風車が先ということか。 更に上を目指すが、この辺りからは、最早、コンスエグラの町も、遠く眼下にある。
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《コンスエグラの町》 コンスエグラ Consuegra, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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頂上の駐車場は、それ程広くない。 観光バスがやっと、Uターンできる程の広さである。 邪魔にならないところに駐車したつもりではあるが、やはり邪魔になっているだろう。 これは、お互い様であるから、バスの運ちゃんも何も言わない。
日本人観光客はガイドさんの説明を聞いたり、風車小屋の中を見学したりしていた。 この山の頂上は馬の背のようになっていて、7基の風車が一列に並んで建っているのが見える。 なるほど風の通りがよい。 また、途中の城跡の近くにも3基ほどあったから、確認できたものだけで10基になった。
360度のパノラマが展開する眺めの中に、むかし絵本で見たような風車が目の前にあるものだから、何だか懐かしい気持ちがするから不思議なものである。 初めて見るものなのに。
このような風車の光景は、スペインでは当たり前のようにあるものと思っていたが、その後、見た記憶がない。 やはり、
ラ・マンチャ地方 独特の風景なのかも知れない。 それも、観光目的のために残しているだけであろうから、数も少なくなっているに違いない。
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《風車の光景》 コンスエグラ Consuegra, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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§§§ この商売はやめられない
一番高いところにある風車の近くで眺めていたら、観光客が帰り支度を始めた。 見ると、先ほどは風車の中を公開していたのに、片付けを始め、扉を閉めようとしている様子である。 皆さんが帰ってからゆっくり見学しようと考えていたものだから吃驚した。
観光バスは、慌しく引き返していった。 こちらも急いで、先ほどから風車の入り口の小さな戸を閉めて、帰ろうとしていたおじさんに、「もう見学は出来ないのですか」 と聞いてみた。 すると、にこにこしながら、機嫌よく、また戸を開けてくれた。
怪しげな日本語も良くしゃべる。 それに鼻歌を歌っている。 『ちんから・ちんから・ちんから・ちんから ・・・・ 』 と抑揚をつけて、リズミカルに口ずさみながら、手際よく作業を進めている。 「ちんから峠」 という歌があったが、このおじさんは、それを聞いたことがあるのだろうか。 よほど、日本人観光客が訪れるところかも知れない。
風車の中は土産物が陳列しているだけであった。 それに、このおじさんは城跡の近くの風車小屋にも同じように土産物の店を持っている様子である。 普段はそこにいて、頂上に向かうバスを見つけると、その店を閉じ、車で頂上の店に向かう。 観光バスは30分もしない内に帰っていくから、その後、この店を閉めて、また、下の店を開くようである。
私たちが城跡見学をしたあとの帰り道で、(店を閉めて?) 観光バスの後を追って車で移動していたのを目撃したから間違いない。
これで、上機嫌である理由が分かった。 実に効率がよい商売である。 一人で異なる場所にあるお店を運営できる。 頂上にある店は、日本人観光客のためのものであろう。 30分ほど店を開けるだけでよい。 一方、城跡まで見学する観光客は、時間的余裕のある観光客である。 こちらの店は長く開けて置く必要がある。 後で分かったが、ここは、風車の構造が分かるように公開されているようである。 コンスエグラでは一基だけと書いてあったから、ここしかないと考える。
『ちんから・ちんから ・・・ 』 と鼻歌がでるのもうなづける。 私は、日本人観光客がコケにされているようで、内心面白くないが、実際のところ、その様に思われても仕方がない。 私も、わざわざ、鍵を開けて貰ってまで、普段は好まぬ子供だましのような土産物屋を覗いてしまったから。
§§§ コンスエグラの城跡 Castillo de Consuegra
私たちが山を下りようとしているとき、観光バスが何台もやってきた。 日本人客ではなかった。 駐車場のスペースはUターン用に空けておかなければならないことは熟知しているようで、先に客を降ろして、狭い道路脇で待機していた。 さらに、来るときには誰もいなかった城跡の前も、人や車で一杯になっていた。 小学生の団体さんやら、若者が多かった。
見るからに廃墟で、何もなそうに見えるが、わざわざ遠足に来るぐらいのところであるから、悪かろう筈がない。 パンフレットも貰ったが未だ読みこなしていないので、名前も歴史も知らない。
ラ・マンチャ地方 La Mancha
ここ、ラ・マンチャ地方 La Mancha は、アラビア語で "乾いた土地" という意味だそうで、イスラムの入植者が多かったところだから、この城もその血を引くものであろう。
カステラの語源
中央イベリヤ一帯の荒野は、カスティーリヤ=ラ・マンチャ Castilla-La Mancha と呼ばれて、九州より広いという。 そして、カスティーリョ
Castillo は、英語のキャッスル castle (城) であり、もともとこの地方には城や砦が多かったところから来ている。 イスラムに占領された国土を取り戻す戦い、レコンキスタ
(Reconquista = 再征服) の800年にもわたる歴史があるからだ。 そして、最もスペインらしいところとも言われている。
南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)が長崎でスポンジケーキを食べていると、それを見た日本人が、それは何かと聞いた。 そのとき、既にケーキは食べてしまった後だったので、ケーキ皿だけがあった。 その皿には城の絵が描いてあった。 聞かれた方は、この城のことかと思って、カスティーリョと応えたという。 |
文春文庫 中丸明著 「スペイン五つの旅」 から引用
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《連絡橋》 コンスエグラの城跡
Consuegra, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh |
ゲートをくぐると、引率の先生が子供たちを前にして城の説明しているようであった。 二三十人もいたから通路は埋まって先に進めない。
それを見て取った先生が、日本の人に道を譲りなさいと言ったのであろう、一斉に皆の視線を浴びて、直ぐに道を開けてくれた。
その後、城内を上に出たり、下に出たりして、出会うたびに声を上げ、手を振ってくれた。
どこを、どう回ったのか分からない。 棟と棟を結ぶ細い連絡橋が架かっているところに出た。
かなり高くて、シースルーだから怖い気もする。 連絡橋を渡ったところに入り口がある。
その扉は閉まっている様に見えたが、試すと簡単に開いた。 普通、博物館でも何でも、閉めてあるものを開けてまで入るようにはしていない。 入室を許可しているところは、初めから開けているものである。
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《騎士団の集会所?》 コンスエグラの城跡
Consuegra, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh |
一瞬入ろうか、どうしようかと躊躇したが、引き返すような見学コースの作り方はしないだろうと思って、中に入ることにした。
その部屋は礼拝堂の様でもあり、騎士団の集会所の様でもあった。
燕尾形の赤と白二つの旗が正面の天井から飾られて下がり、縦に一列だけ長椅子が並べられてあった。
隣の部屋は、四方の壁面に、小さい額縁の絵ではあるが多くさん飾られていた。 不思議に誰もいなかった。
しばらく眺めていたら、連絡橋から見かけた管理人が反対側の入り口からやってきた。
そういえば、あの時、眼と眼が合ったから、この先は見学できるのかとゼスチャーで聞くと、色々と応答してくれたが良く分からなかった。 すると、言っても無駄と分かったのか、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
思い返せば、鍵を開けに来てくれたに違いない。 そこからは入れないから一旦下に降りて反対側にある入り口から入れといっていたに違いない。
私が怖いような連絡橋である。 (私だから怖い?) 危険だから、普段は通れないようにしてあったのかも知れない。 私たちが中に入ったのを見かけて、鍵をかけるのを忘れていたことに気付き、慌ててやってきたのかもしれない。
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《ラ・マンチャの光景》 コンスエグラ Consuegra, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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この城跡からの眺め は素晴らしい。 ラ・マンチャを一望できる。 スペインの人がコンスエグラと言えば、風車と、廃墟となったこのイスラムの古城と、サフランの三つを思い浮かべるという。
このことを知ったのは、つい最近のことであるから、サフランは見逃した。 前の二つは、否が応でも眼に入るから見逃すことはない。
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《城跡からの眺め》 コンスエグラ Consuegra, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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§§§ 鳥観 (とりみ)
この城跡から眺めていると、
チョウゲンボウ が、それこそ群れを成して空を舞っていたし、ツバメも飛んでいた。 八幡さんのカラスより多いに違いない。
ラ・マンチャの荒原も、不毛の大地のように見えるが、それは人間の目から見ることであって、彼らから見れば、八幡さんこそ、不毛の大地に見えることであろう。 昆虫や小動物が多くさん生息している証拠である。
コンスエグラの風景 (スライドショウ )
§ トレド Toledo へ
いよいよトレドへ向かう。 昨日からドライブをしてきて気がついたことは、私が望む
英国の B&B 風の民宿が全く期待できないということである。 フランスでも、
英国やドイツ、イタリアと比べた場合、期待通りではなかったが、スペインでは期待すること自体間違っているような気がする。
何しろ、都市と都市の間は荒野である。 途中に民家もないから、当然、民宿もない。 また、民族大移動の経験もなかったのであろうか、旅することに消極的な国民性のようにも思う。 スペイン語しか喋れない人が大多数であることも、そのことを物語っているような気がする。
B&B (bed and breakfast)
《英》 朝食付き民宿
【解説】 短期間の滞在に利用される英国・アイルランドの民宿で、略して
ビーアンドビー
b and b または、B and B
b & b または、B & B
という。
一般にホテルやゲストハウス (guesthouse) よりも安い |
by New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd.
1967,1994,1998
cf. 宿探しについて
cf. フランスの宿事情
cf. スペインの宿事情
だから、道々、宿を探しながら目的地に向かうようなことをしても無駄であることが分かった。 直接、高速道路でも何でも、早く目的地に到着した方がよい。 その考えで走り出したら、いきなりロータリーに出くわした。 家内の指示通りにロータリーを出たが、なんだか自信がなさそうである。 要するに、ロータリーの案内標識には、知っている町の名前が出ていなかったらしい。 ならば、標識がないのと同じであるから、方向感覚だけでロータリーを出た。
蛇足かも知れないが、知らない町だけの標識であれば、直進することをお勧めする。 ロータリーであるから、物理的に直進できないではないかと、ちゃちゃを入れる人もいるかも知れないが、そうではない。 今来た道の延長線上にある道を行くということである。 要は、道なりを行くということである。
断っておくが、実際には出るべき道が表記されているにもかかわらず、ただ勉強不足のため、知らなかった、見なかった、という人に、直進を勧めるものではありません。
真っ直ぐな広い道で、地平線の彼方まで続いていた。 車も少ないから走りやすい。 ところが、どこか不安感があるものだから、気持ちよくは走れない。 もう一度、ロータリーまで引き返してはどうかというが、その内に標識が出てくるだろうから、もうしばらく走ってみようということになった。 それに方角は間違ってはいないという。
方角は間違っていないというが、その根拠が何処にあるのか、私には理解できないし、知りたいところである。 ただ、家内は、ハトにも似た、方向感覚の持ち主であるから、その根拠を聞かれても、説明しようにも説明できるものではないかも知れない。 それに、方向音痴の私が口出しできるものでもない。
小一時間も走ったが民家も何もないし、状況は変わらない。 もう引き返せないところまで来たし、尚も道は真っ直ぐだし、さすがの家内も不安になってきたようである。 どうしたものかと走っていると、パトカーの姿が遠くに見えて、検問しているようであった。 一瞬、スピード違反でもしたかと冷やりとしたが、ここで道を確かめなければと、止められてもいないのに、わざわざ停車した。 前方には車が行き交う幹線道路らしいものが見えていた。
トレドへ行きたいというと、前方を指差して、あの交差点を右折して、そのまま進めばよいと教えてくれた。 ここまで来れば、何も教えてもらわなくても、、トレドには行けたであろう。 もっと早く検問してくれていたら、快適なドライブが楽しめた筈である。
CM400 の道を辿るべきところを CM4054 を辿っていた。 特に大きな間違いではない。 これによって距離的ないし時間的ロスは全くないといってよい。 むしろ、初めから分かっていれば、この道を選んだかも知れない。
これより先は、車の数も増えて、いかにも国道を行くという感じであった。 トレドが近づくにつれ、道は上り坂になり、やがて下り坂になって、見覚えのある景色が現れてくるであろう予感が何度もしたものだった。 次のコーナーを曲がったところかな、また、この次かな、といっている内に、間違いなく見覚えのある景観が現れて、ようやく、トレドに到着したことが分かった。
世界遺産の名前 |
地区 |
種別 |
登録年 |
古都トレド |
トレド スペイン |
文化遺産 |
1986年 |
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(注) 文化遺産は、普遍的な価値のある記念工作物、建造物、遺跡など。
cf. 《トレド》 by Wikipedia
§§ パラドール Parador を探して
眼下はタホ川である。 外周道路をパラドールへの案内板を探しながら行っては、Uターンして引き返す。 パラドールから見た、トレドの景観は頭の中にあるから、だいたいの場所は想像がつく。 それらしき道を探して試行錯誤していると、やっと案内板が見つかった。 それが、いよいよ最終分岐点というところに来て、道を間違った。 山の上の方に行ってしまった。 また、引き返して、別のルート選び、再トライするが寸前のところで、また間違った。 この時は間違いに直ぐ気がついたが後の祭り、一方通行で引き返せない、今度は外周道路まで出て振り出しに戻ってしまった。
なんぼアホでも三度も失敗はしないであろう。 アプローチを進むと石畳の大きな広場が現れ、そこに平屋風の見るからに重厚な造りの玄関があった。 やっとパラドールに到着した。 家内の念願の宿である。 しかし、ここに泊まれるかどうかは未だ分からない。 何しろ、世界に知れた人気の宿である。 このチェックインの様子は、
海外ドライブ(13) に詳述しているので、ここでは省略する。
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《タホ川に包まれるようにして》 トレド Toledo, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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U字型に蛇行するタホ川に包まれるようにして、トレドの街はある。 そのU字の底に当たるところが旧市街で、その上に広がるところが新市街になっている。
そして、パラドールは、この旧市街をタホ川の対岸から見下ろす様ににして、高台にあるから、その全容が一枚のカンバスに収まる絵のように見える。 実際にエル・グレコ
El Greco が当時 (17世紀) の、トレドの風景を描き残しているが、それは今と、さほど変わらないというから驚きである。
オルガス伯爵
トレドのパラドールは 「コンデ・デ・オルガス Conde de Orgaz」 即ち、"オルガス伯爵" と呼ばれて、エル・グレコの
《オルガス伯の埋葬》 に描かれているオルガス伯にちなんだものという。
オルガス伯は、トレドのオルガス村の領主で、信仰心の篤い人であった。 当時荒れ果てていた、使徒聖トメに奉献された教会の再建と、また、死後は、その教会に埋葬して欲しいと願って、莫大な金銀財宝を寄進した。 そして、司祭たちが伯爵の遺体を埋葬しようとしていたとき、天上界から二人の聖人が降りてきて、手ずからここに埋葬されたという。
サント・トメ教会 Iglesia de Santo Tome が、エル・グレコに、この絵を描かせたのには理由があった。 昔はオルガス伯のように信仰心篤き人が多かったのに対し、近年の住民は、その浄財の献金という義務を怠るようになっていた。 それを怒って裁判を起こし、ついに教会側が勝利したのである。 その勝訴を記念するものという。 |
文春文庫 中丸明著 「スペイン五つの旅」 から引用
§§ 再会
部屋も決まり、車から荷物を運び入れるために玄関を出ようとしたら、後から誰かに呼び止められた。 私は一瞬、見回すが誰も知った人もいないので、キョトンとしていたら、家内が気がついた。 「ほら、マドリッドのレンタカーのところで・・・」 というところまで聞いて思い出した。 大きなベンツを借りた米国人のご夫妻であった。 そう言えば、あの時も声を掛けられた。
同じロビーにいた私たちのことを、先に気がついたようである。 こういう場合、家内の方が先に気がつく筈であるが、外国の人となるとそうも行かないのであろう。 このような再会があることを思ってもいなかったから、何だか嬉しいものである。 美人の奥さんの笑顔も嬉しい。
彼らはセゴビアから来たらしい。 今日はここに泊まりに来たのであろう。 私が部屋を確保できた様子を説明すると、「あなたが最後の一部屋をゲットしたのね」 とにこやかに言った。 彼らは一歩遅かったようである。 それでも残念がる様子は微塵もない。
昨日はどこに行ったのかいうから、コンスエグラという町で風車があったというと、持参のガイドブックを取り出して確認していた。 彼のガイドブックにも載っていたようである。 ホテルは一軒しかない、それも一つ星であるというと、星の数はどうでも良い、清潔か、静かか、電話はあるか、と聞いてきた。
なるほど旅慣れている。 電話はさておき、私の 「
宿選びの三原則」 にもマッチするものである。 口には出さなかったが、安全のことも言外に込められている。 このパラドールと比べようもないが、もちろん、問題ないと応えて別れた。
§§ トレドの街へ
車でトレドの街へ向かう。 街の西側にある橋を渡ろうとするが最初の橋は、車は通れないようである。 次の橋を渡ると新市街に通じる綺麗な道が続き、中心部であろうところに大きなロータリが現れ、見ると、その傍に地下駐車場があった。 そこからエスカレータを乗り継いで高台にある街へと上がれるようになっていた。 歴史都市というのに中々近代的な設備である。
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《歴史都市トレドの街並》 Toledo, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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遠くから眺めると美しい、トレドの街並みも、その中に一歩身を投じると、他の街でも良く見るような、歴史都市の街並みと変わらない。 もう迷路に紛れ込んだようで、思うようには動けないところがもどかしい。 意外に大きな街で、バスも走っているから、歩きの地図では距離感が掴めず、あまり役には立たない。
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《カテドラルの尖塔》 トレド Toledo, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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それでも、時折り、カテドラルの象徴的な尖塔が、街並みの屋根越しに垣間見られることがあり、およその位置関係の見当はつく。 旧市街の街並みは、このように教会を中心にして、どこからでも、その尖塔が見えるように構成されているそうである。
§§§ カテドラル Catedral
カテドラルの入り口付近の混雑振りは半端ではない。 何故か、入り口向かいにある土産物屋の店先に "入場券発売所 " と日本語で書いた看板があった。 チケットを頼むと向かいの入り口を指差して、無料であるという仕草をして、売ってくれなかった。
Catedral = 【英】cathedral
Ⅰ (カトリック・英国国教などの) 大聖堂、司教[主教]座聖堂、カテドラル: 司[主]教 (bishop) の座があり、従って、その司[主]教区 (diocese) を代表する聖堂
Ⅱ 大(教)会堂
【語源】 ギリシャ語 「座」 の意 |
by New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd.
1967,1994,1998
訳が分からず、とにかく中に入り、一周して見て様子が分かった。 カテドラルの中は大きくて広い。 それが、あるコーナーでは、チケットがないと入れない、宗教画を展示している部屋や、由緒ある祭壇があったりする。 ところが日本人の観光客で、チケットを買ってまで、それらをじっくり見て回る人がいなかったということであろう。 また、見ても分からないだろうと思ったかも知れない。
中には、要らぬものまで買わされた、入るのはタダではないかと、イチャモンをつけた人もいたのであろうと思う。 それを見越して、チケットを買う前に、中に入って見てきたらどうかと勧めてくれたに違いない。 中々の気配りである。
これからカテドラルを見学される方にはお伝えしたい。 クリスチャンでなければチケットを買う必要はない。 有料の展示室で見て分かるようなものは何一つない。 建物の規模や雰囲気を味わうだけのものであれば、カテドラルの中に入いるのはタダである。
私たちはチケットを買うために再び売店を訪れた。 先ほどの店員さんがチケットを売ってくれた。 五枚に千切れるようにカットが入っていた。 全て見て回ったが、前述のとおり、折角のお宝が
"猫に小判" 状態であった。 ところが、ある祭壇の中に入って見学していたら、またもや、あのベンツの米国人夫妻に出逢った。
これもそれも、チケットを買ったお陰ではあるまいか。 このとき初めて、彼らが貿易商であり、マサチューセッツ Massachusetts 州から来ており、マサチューセッツ工科大学
(MT) のことを自慢したり、日本に来たこともあるということが分かった。 今、思い返せば、MTの卒業生かどうか聞いて欲しかったのかもしれない。
§§§ アルカサル Alcazar
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《トレドのアルカサル》 Toledo, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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この、トレドのアルカサルも、セゴビアの
アルカサル と同じで、イスラムの城のことである。 そもそも、"al " で始まる言葉は、多くは、アラビア語に語源を持つという。 それに、スペイン語の一割ほどが、語源を辿ればアラビア語になるという。
《中丸明著 「スペイン五つの旅」 から引用》
このことからも、スペインという国が歴史の波に翻弄されてきたことがよく分かる。
このアルカサルは正方形のような外観で面白みがない。 セゴビアの白雪姫の城とは大違いである。 それに工事中か何かで門が閉まっていて中には入れなかった。 こういう場合、何か大切なものを見逃したことが後で分ったりして、残念な思いをすることが多いものである。
余談 ・・・
今までで一番悔しい思いをしているのは、ローマ Roma である。 河島英昭著 「ローマ散策」(岩波新書) を帰国後に読んだ。 その冒頭に、"ローマで半日の自由がある。 どう過ごせばよいか? と問われるたびに、私はすすめてきた。 カンピドッリオの丘
Monte Campidoglio に立つことを" とあった。
・・・ 私たちが、最後に駆け足で訪れたところである。 ローマ第一の名所とは知らなかった。 それも来ただけで、何も見ていないのと同じである。 また、カンピドッリオの丘だけではない。 ことごとくと言っていい、見るべきものを、通るべき道を、避けるようにしてきたようである。 そのことが分かって、ショックであった。 是非とも再訪したいと願っている。 これから、ローマを訪れる方、また、既に訪れた方にお伝えしたい。 この
「ローマ散策」 は、名著であると。
"ゆるやかな坂道の階段を進むと、巨大な白亜の彫像が姿を現す。 迎えに出てきた左右の人馬の彫像に、「この世のものではない」 気配を感じ取るであろう"
・・・ 確かにそうであった。 神々しいほどであった。 この神人天馬の彫像が古代ローマの発掘品であるということは知らなかった。
"正面の時計塔のある建物はローマ市庁舎である。 ただし、呼び名は、一千年以上前と同じ、元老院宮殿 Pal. Senatorio"
・・・ ローマ市庁舎であることも知らなかったし、そんなに由緒あるものとも知らなかった。
"元老院宮殿に向かって左右に立つ建物は、世界最古のカピトリーニ美術館 Musei Capitolini である。 今は、中に入らなくとも良い。 それだけで半日はかかる"
・・・ 入ってはいないが、また、入る時間的な余裕もなかった。
"われに返って、あたりを見まわしてみよう。 敷きつめられた灰色の舗石の上に、類例のない幾何学模様が白亜の石材で描き出されている"
・・・ 実は、これだけを見に立ち寄っただけである。 ミケランジェロ Michelangelo の設計と聞いていたからだ。 フィレンツェの共和制が失われ、60歳近いミケランジェロがローマ亡命の覚悟を決めた。 そして、ローマ再生のために尽くした。 その一つが、このカンピドッリオの丘の整備計画であったという。
"ミケランジェロの広場に立って、しばらく見入ったあと、私たちは奇妙な予感に誘われて、元老院宮殿の背後の世界を眺めるであろう"
・・・ 誠に残念なことであるが、この予感がなかった。
"宮殿の背後にある見晴らし台の、手摺に駆け寄って、私たちは唖然と立ちつくしてしまう。 目の前に展開する、かって味わったことのない感覚の風景。 それが私たちに働きかけてくる古代世界なのだ"
・・・ そういう位置関係であったのか。 もう百歩ほど歩いていたら、私たちが昨日見たフォーロ・ロマーノ Foro Romano がここから一望できた。 言われて見れば、ブラッド・ビッドの映画
「トロイ」 で、陥落寸前にトロイの戦士アイネイアス Aeneas が脱出するシーンが一瞬出てくる。 我々は見逃しても、イタリアっ子は見逃さないという。
その13代ほど後の子孫であるロムルスがパラチーノの丘 Monte Palatino を選び、ローマ建国の王となるからである。 今いるカンピドッリオの丘と、この建国の聖地であるパラチーノの丘の間の谷間に、フォーロ・ロマーノがある。 この眺めを見逃したことが、今でも悔やまれるのである。
このアルカサルの場合、今のところ、そのような感情はない。 それより、この直ぐ近くに展望台があり、中々見晴らしが良い。 U字型に蛇行するタホ川の西側の橋を渡って、トレドに入ったが、そのまま街を横切って、東側の川端から眺める風景である。 パラドールも遠望できた。
思えば、このタホ川を
アランフェス でも見た。 それから、これから先に訪れる予定のポルトガルの首都リスボンで、また、再会することになる。 そこでタホ川の長い旅も終わり、大西洋へと注ぎ込むのである。
§§§ 大渋滞の散歩道
アルカサルを後にして、エル・グレコの家に向かう途中、数百メートルにわたって、路上駐車の車で、ぎっしりと埋め尽くされた道を通らなければならなかった。 Uターンも出来そうにない程である。 だから、もし、ここを車で通りかかることになれば、先に進むしかないだろう。 ところが、私たちは、その先からきたので知っているが、行き止まりである。 こんなところに紛れ込んだら 『えれーことになるな ・・・ 』 と思いながら、しばらく進むと学校があった。
小学校のようで、下校時間であろう、子供たちや父兄でごった返していた。 そのお出迎えの車が待っていたようである。 最近は、日本でも同じような状況になってきたようであるが、親が送り迎えするのが習慣である。 安全上の配慮であろう。 このような観光地の学校も大変であるが、ここに定住している人が多くさんいるということであり、いいことである。 生活感のない街に、ビジネスならともかく、観光客が訪れる訳がない。
便利であるからといて、旧市街へ車で乗り入れようと考えない方が良い。 私も、えれー目にあったことがあるし、見てもきた。 ある街の長い階段を下りていたら、途中で車が横から出てきたから吃驚したことがある。 まさか階段は走れないだろうと思っていたら、案の定、バックして行った。
それも、車が通れるほど広くない道であったから、大変であったろうと思う。 要するに、彼らも望んで来た訳ではない。 バックできないものだから、前に前にと進むうちに、終に破局が来るというものである。 重ねて言う。 心臓に負担がかかるから、旧市街に車で乗り入れるのは、止めた方が良い。
§§§ 中華のお店は融通がきく
歩き疲れたし、腹も減ったしで、どこか食べるところはないかと探しもって歩いていると中華のお店があった。 中に入ると、かなり大きなお店であるのに、お客は誰もいない。 店にいたおばちゃんに、飯を食べたいと言うと、開店前だという。 昼を過ぎているのに開店前というのも変な気がするが、一般的なレストランの昼時の営業時間は 13:30-16:00 という。 とすれば、このとき、気がつかなかったが、もう4時を過ぎていたということである。 次の開店時間は、夜の8時以降になる。
諦めて、帰ろうとすると、待てという。 それでも、躊躇していたら、いいから、そこに座れという。 余程、落胆したことが顔に出ていたのであろう。 ここを逃したら8時まで待たねばならない。 何を食べたいのかと聞いてくるから、メニューを貰って、適当に注文したら厨房に相談に行ってくれた。 このおばちゃんは、どうやらオーナーであるようだ。
スープ、焼き飯、カモのグリル、春巻き、焼きそば、海老と野菜の炒めもの、各一品づつを注文して二人で分けて食べた。 おばちゃんの粋な計らいで飯にありつけた。 久しぶりの中華である。 それに安くて美味かった。 食べている途中、旦那であろう、夜用の仕入れ物を担いで帰ってきた。 いかにも働き者らしく、笑顔で挨拶して、又どこかに消えた。
§§§ エル・グレコの家と美術館 Casa-Museo del El Greco
エル・グレコ El Greco の名前は、"どこかで聞いたことがある" 程度の知識しかなかった。 ところが、スペインの案内書を見ていると、よく目にするようになって、特に、、トレドでは知名度が高いことは前述のとおりである。 彼の家 (実際には彼が住んでいた付近の廃墟を復元したもの) があると聞いて出かけることにした。
エル・グレコ El Greco
エル=グレコ (1541-1614) とは、スペイン語でギリシア人の意味である。 本名は Kyriakos Theotokopoulos という。
スペインの画家で、クレタ 島の生れだが、ヴェネツィアで修業し、トレドで没した。 特異な構図と大胆な筆致で多くの宗教画を描いた。 作品は、「オルガス伯の埋葬」 など
・・・ 広辞苑より
エル・グレコは偉大な芸術家であるが、その一方ではユダヤ人顔負けの画商であったという。 彼の作品で、注文主と金銭トラブルによる裁判沙汰にならなかったものはない、と言われているほどである。
金さえ払ってくれれば、同じ画題の絵を何枚でも描いたという。 彼は稼ぎに稼いだが、死んだ時には破産状態であったらしい。
彼は全作品に本名のドメニコ・テオトコプーロス Domenikos Theotokopoulos と署名していたにもかかわらず、"あのギリシャ人"
というあだ名で呼ばれた。
・・・ 文春文庫 中丸明著 「スペイン五つの旅」 から引用
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ベニスの商人の話でも同じと思うが、不当な蔑視の感情と思われる。 屁理屈をこねて、借金を踏み倒す方が善玉として喝采を浴びているのを観ると、今のユダヤ人はどのような思いであろうか。
もう、5時を回っていたから閉館しているかと思って心配しながらやってきた。 6時までOKという。 宗教画は私にとっては、じっくりと良く観ても、ざっと流しても、大して状況は変わらない。 時間の多少は関係ない。 入るために来たから、入ることにした。 聖
~ とかの名を聞けば、その聖人の生涯が思い偲ばれるのであろうが、私には、それが皆目分からない。 宗教画を、風景画とか肖像画と同じ様に眺めるだけである。
それで心に響くものがなければ、私には無縁の作品ということになる。 ところが私のような人間には、キャッチフレーズの良し悪しが、視聴率のように、もろに作品の評価に影響するものである。 パラドールにも飾ってあったが、エル・グレコの
「トレドの景観と地図 Vista y Mapa de Toedo」 の本物があるというだけでやってきた次第である。
これなど、芸術上の云々よりも、描かれている地図が当時も今も同じようなもので、大きく変わっていないとか、その地図を持っている青年が、エル・グレコの息子であるとか、そういうキャッチフレーズであるから、大したことはない。
§§§ ATM のトラブル
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《エル・グレコの家》 トレド
Toledo, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh |
早々とエル・グレコの家を出たら、向かいの家に外壁形のATMがあるのを見つけた。
現金の手持ちが少なくなり、補充しなければと気にかかっていたから、早速、利用することにした。
CCM BANK という聞きなれない銀行の端末であったが、私のカードも使える旨の表示が出ていた。 カードを入れ、200ユーロの引き出し処理をした。
ATMの操作は、これまでのものと変わるところはない。 ところが、カードが取り込まれたまま、なかなかお金は出てこない。
このままカードが出てこなければどうしようかと、不安になってきた。 これまで、聞いたことがない銀行だったので、尚更のことであった。
その悪い予感が的中したのである。 しばらくして出てきたのは、レシートとカードだけであった。 お金は出てこないで、ATM は故障してしまったようである。 それでもカードが出てきたので安心したが、レシートには、"200ユーロ"
の印刷文字が見える。 何しろスペイン語であるから他は良く分からない。
慌ててエル・グレコの家に戻り、受付のおばちゃんに助けを求めたが、ATM とは話のしようがない。 それに機械も止まっている。 おばちゃんは、近くにいた人たちにもレシートを見せて、色々と聞いてくれていた。 しばらくの間、あれこれと思案している様子であったが、CCM BANK は未だ営業している筈だからと、そこに行くことを勧めてくれて、道まで教えてくれた人が出てきた。
この辺りは個人商店も多いから、その銀行と取引のある人であろうか。 どうやら怪しい銀行ではなく、地元の人が利用する銀行の様である。 それほど遠くはないし、私たちもその方面からここまで来たから、大体のところは分かった。 それでも、閉店してしまっては、話は翌日まで持ち越されることになる。 息せき切って営業所にやってきた。
幸いにも灯りがついていたし、中には人影も見えた。 玄関を入り、正面のドアーは開けようとしたら、鍵が掛けられていた。 営業は終わっていたが、残務処理をしているのであろう、左側のガラス越しに、人が机に向かっているのが見える。 手を振って合図を送ると、すぐ気がついてくれた。
向こうも手を振って、『営業はもう終わった』 と言っているのが分かる。 おじさんであった。 それでも、こちらは引き下がる分けにはいかないから、なおも手を振り続けていると、上からブラインドが下りてきた。 関わりを避けるため、ブラインドのスイッチを押したのであろう。
私は慌てて、ポケットから例のレシートを取り出し、ブラインドが下りて来る中を、両手でそれを窓辺にかざして注意を引いた。 それが功を奏した。 おじさんも異常に気付いてくれたのであろう、ブラインドは、再び、上がっていった。 まさに、間一髪のところであった。
そのおじさんは、奥のコンピュータの前でコンソールに向かっていた女性のところへ歩み寄り、異常を伝えてくれたようである。 しばらく待っていると、その女性が玄関のドアーを開けて、私たちを中に招き入れてくれた。 彼女は、ATMの不具合情報も掴んでいたのかも知れない。
レシートを見せて、状況を説明すると、"INOPERATIV" とか "OPERACION NO REALIZADA"
とかの文字が印刷されているところを指差して、機械は故障したが、何の取引も成立していないことを証明している旨、説明してくれた。 確かに、スペイン語ではあるが、すぐ英語に置き換えることが出来るもので、納得できた次第である。
ローカルな銀行であったからこそ、直ぐに解決できたともいえる。 これが大銀行であれば、玄関にも近寄れず、尚更、窓から手を振って合図を送ることなど不可能であったろう。 不幸中の幸いともいえるかも知れない。 いづれにしても、現金が必要なことに変わりなく、また、近くに、ATM
を見つけて引き出し処理をした。 今度は、何事もなく無事に現金を手にすることが出来た。 午後7時27分のことであった。 外は未だ明るかった。
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《トレドの街の夜景》 Toledo, Spain 2005/04/21 Photo by Kohyuh
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ホテルに帰ってレストランを覗くと開店したばかりであろう、超満員の様子で、また、日本人客で溢れかえっていた。 今からでは待たされることは間違いない。 恐れをなして、隣の喫茶店でお茶しただけで部屋に戻り、トレドの街に陽が沈み行く様子を堪能した。 不思議に空腹感はない。 遅かった昼食が幸いした。
トレドの風景 (スライドショウ )
パラドール・デ・トレド Parador de Toledo
【H】 4★
【住】 Cerro del Emperador Toledo 45001 Spain
【TEL】 925-221850 【FAX】 925-225166 |
パラドール・デ・トレド Parador de Toledo 2005/04/21 (泊) |
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