鳥紀行 フランス編 (8)
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cf. 《行程図 フランス編》 参照 § 2004/04/22 (木) ドライブ旅行 2日目 朝食の時間がきたのでドアを開けると、丁度、お盆をかかえて、昨日のおじいさんがこちらに向かってくる姿が見えた。 パンとコーヒーとジャムとバターだけの、典型的なコンチネンタルである。 質素な朝食のようであるが、ラテン系の人の食事スタイルを考えると当然のことである。 夕食は、午後八時以降に摂る。 レストランも、それまでは閉まっていることが多い。 更に、飲むわ、たらふく食べるわ、横で見ていても吃驚する。 そのあと、ケーキも食べる。 それが大きくて甘すぎる。 初めは感激するが、昼食と夕食と、続けて食べて、胃の調子が悪くなった。 これでは、朝は食べれまい。
ジベルニーへ 今日は、ジベルニーへ行くが、ここからニ三十分とか、昨日、主が言っていた。 チェックアウトのために荷物を持って、門のところにある、おじいさんの家に行くと、お土産にと、木製の額縁付きの絵を差し出して、私たちにくれるという。 自分で書いた油絵であるとのこと。 どこかで見たことのある絵であった。 家内はそれを、とても喜んで、それこそ宝物のように取り扱っていた。 帰国後に分かったが、「青いターバンの少女」 で知られる、フェルメールの 「牛乳を注ぐ女」 の模写であった。 実際の 「牛乳を注ぐ女」 のカンヴァスは 45.4×40.6 cm であるが、それを自分の好みの構図であろう、20x30 cm ほどにトリミングして描いていた。 §§ ジベルニー Giverny の 「モネの家」 ジベルニーへの道は、迷うようなところはなく、駐車場も直ぐに見つかった。 小さな村のようで、どこに 「モネの家」 があるのか見当がつかなかった。 目立つ建物がない。 どの家も周りの美しい風景に溶け込んでいる。 まだ、団体さんが到着していないから、人の動きもない。 適当に歩き出した。
ここは、テレビでも良く観たことがあるから、大体のところは知っている。 モネの書斎も、彼が好んだ日本の浮世絵などを飾った部屋も、記憶にあった。 ゴッホやモジリアニのように、幸せ薄かった生前と打って変わって、死後に有名になることが多い画家達のなかで、モネ (1840-1926) は違った。 印象派という名前の由来となった、モネの 『印象、日の出 (Impression, soleil levant)』 は、彼の34歳頃の作品であるから、若くして有名人となって、86才で没するまでの長きに渡って、何不自由のない人生を全うした。 家の前の庭は、バラや様々な草花が植えられて、まるで花園である。 たくさんの植木職人が庭に入って手入れしていた。 道路を隔てて、あの睡蓮の絵を描くため、池のある庭も作られた。 憧れだった日本の庭を想定して造られたという。 絵になるように作られているから、なるほど、絵になる。 日本画家の千住博だったと思うが、睡蓮を描くためのもので、風景そのものは、庭の外にある周りの自然が素晴らしい、というようなことを言っていた。 そうかも知れない。 §§ ズアオアトリ
分類 スズメ目アトリ科 全長 L14.5 W24-28 cm 学名 Fringilla coelebs 英語名 Chaffinch この ズアオアトリ ♀ は、ジベルニーにある 「モネの家」 の庭の木にいた。
ズアオアトリは、あまり人を怖がらない様子で、花の蜜でも吸っているのだろうか、同じ木の中を動きまわっていた。 ロビンがいた 最近、写真を整理していたら、ズアオアトリのオス (写真) と分かったので、ここに記録として留めることにした。 (2004/12/23) §§ レザンドリー Les Andelys レザンドリーへ向かうべく、セーヌ川沿いの田舎道を行くが、それでも大きな町を通過することがある。 こういう場合、スーパーマーケットがあれば立ち寄って、食料品やミネラルウォータ等を仕入れたりするのが良い。 用足しも出来る。 昼飯は、レザンドリーの古城跡で食べる予定であるから、パンや果物やハムを調達した。 珍しそうな、ハムやソーセージなどを見つけると嬉しくなる。 果物も豊富で、西洋梨が安くて美味かったから、これは欠かしたことがない。 何処だったか忘れたが、こういうショッピングセンタでトイレを探すが見つからなかったことがあった。 店員さんに聞くと、大きな木札の付いたキーを渡され、何処そこにあるという。 バックヤードに通じるところにトイレがあったようで、誰でも自由には入れないように、考えてしているのだろうか。 また、トイレが空いているかどうか、一目で分かるようにしているのだろうか。 何回か経験したが、良く分からない。 レザンドリー Les Andelys は、セーヌ川が大蛇行 しているところにあり、高台からその様子が見える。 セーヌ川は、サン・ジェルマン・アン・レー付近でも、ジベルニー付近でもまた、同じように大蛇行している。 ただ、見渡せる程の場所がないだけである。 ところが、レザンドリーの丘は、それが出来るという訳だ。 また、そこには、ガイヤール城 Chateau Gaillard の廃墟がある。
レザンドリーの町に入ると丘の上に城跡らしきものが見えるし、丘を登る道も見えた。 運良く、インフォーメーションセンタが見つかったから、お約束どおりに立ち寄ってみると昼休みであった。 何のことはない、運が悪かった。 そうして、また、不運は続くものである。 見えているのに、その丘に登る道が分からない。 案内標識のとおりに進むが、行けども、離れていくばかりに思えて、次の標識が出てこない。 というのも、丘に上る歩道も見えるし、実際に、車を下りて確かめたが、まさに、丘に向かっている様子であった。 しかし、残念なことに、車は通れない。 地元の人の散歩コースであろう、お年寄りの人が行き来しているのが見える。 この辺りは、もう、その公園の一部となっている様である。
傍の小さなせせらぎに、バンがいた。 オオバンは、その後、観る機会が多くあったが、バンは、むしろ少ない。 カメラを向けたときには、既に気付かれていて、いつもの行動パターンどおり、何食わぬ顔をして、お尻を向け、遠ざかっていく途中であった。 cf. バンの危険回避戦略 cf. バン 1 cf. バン 2 何処か、この歩道の近くに、車で行ける道があると思うのが普通だろう。 だから、途中で標識を見落としたかと思って、また、元に引き返すのが人情というものだ。 インフォメーションまで戻って、今度こそ、注意深く行くが、同じ結果であった。 これを何回か繰り返したが、駄目であった。 標識はなかった。
芝生の上で昼食を広げた。 天気も良く、気持ちが良い。 また、誰もいない。 横には古城跡が見える。 昼食が終わる頃になって、車が一台入ってきた。 元気のよい、中学生であろうか、男の子二人が、道なき斜面を古城の方に駆け上っていく。 私たちも、古城に向かうが、誘導路を行くには、遠回りになることはなはだしい。 行儀が悪いが、子供たちの後を追って、斜面を登って行った。
ただ、そこからの景色が楽しみであったから、仕方がない、入ることにした。 中では、石段を整えたり、色々と工事の最中で、金もかかっているようだ。 修復費用の足しにもなるのだろう、納得した。 ここからの眺めは素晴らしかった。 駐車場とは大違いだ。 セーヌ川が大きく蛇行している様子も良く分かる。 ノルマンディー地方特有の白い絶壁が湾曲部に観られた。 §§ ルーアン Rouen ルーアンは、フランスの知っている都市の名前を挙げよと言われれば、私は思い浮かべることが出来たであろう。 ジャンヌ・ダルクの映画を観たか何か、そんなところだろうか。 彼女がこの地で火刑に処せられた。 ルーアンの他のことは知らないが、ジャンヌの片鱗には触れてみたいと思っていた。 彼女はフランスの歴史上の人物の中でも、かなり上位を占めるであろう。 ・・・ といって、彼女のことを良く知っている訳ではない。 何しろ、ジャンヌ・ダルクと言えば、"オルレアンの少女" として有名であるから、当初は、オルレアンとルーアンを混同していた。 だから、私の知識もその程度だった。 ルーアンのような大都会は、ドライブ旅行では立ち寄りたくはないところである。 交通渋滞はするし、道にも必ず迷うし、ろくなことがない。 町へ入るのは、"City Center" の標識を辿っていけば良いから、ルーアンの町のど真ん中に到着することは容易である。 ところが、そこから、町の外に出るのが難しい。
"City Center" なる所に近付けば、今度はパーキングがないか注意して進むのが良い。 そして、見つかれば、迷わずそこに決めるのが良い。 欲を出して、もっと便利なところがないかと進み続けると、今までの経験上、ろくなことがない。 うまい具合に地下駐車場があった。 サン・マルク広場 Place Saint-Marc の地下駐車場であった。 大都会ともなれば、この辺りで駐車するのがお勧めである。 あとは歩くなり、メトロなり公共交通機関を利用する。 もう、午後4時前であった。 §§§ ノートル・ダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame サン・マクルー教会 Eglise St-Maclou
実は、このときは未だ、この教会が、何とかかんとかというゴシック様式の名建築とは知らなかった。 木造建築で見るからに歴史が感じられる建物であったから、すぐさまカメラを構えたが、シャッターが押せなかった。 薄汚れて、骸骨やらドクロやらの彫刻が、いたるところに施されているのが眼に入ったからである。 見ていて気持ちが悪いのである。 私はお化けや幽霊は、小さいときから苦手であった。 お寺の便所は怖かった ノートル・ダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame のこと
この広場には、インフォメーションもあり、観光客で賑わっていた。 パリのノートル・ダム大聖堂は、すっきりとした姿であったが、ルーアンのものは、ゴシック様式というのであろうか、ごたごたと装飾が多い。 そして、正面広場の奥行きが少ないため、私のカメラでは、その全容が捉えられないのが残念である。 大聖堂の中には入らなかった。
§§§ 大時計 Gros Horloge ノートル・ダム大聖堂の正面を背に延びる道は、大時計通り R. du Gros Horloge と呼ばれている。 この通りの中ほどにゴシック建築の鐘楼と一体化した、大時計を掲げるアーチ状の門があるからである。 ここは、歩行者天国になっていて、色々なお店が立ち並ぶ、ルーアンの心斎橋といったところかも知れない。
この大時計の針は、一本しかない。 だから、その一本針は、時間を示していることが分かる。 そして、良くみると、下部に扇形の細いスリットがあり、その中に、神話であろうか、何かの絵模様が見えている。 それが回転しているようで、見る人が観れば、分の単位まで分かるのであろう。 因みに、写真を撮った時刻は、16時42分であったから、この大時計は、今でも正確に動いていると言えそうだ。
そして、さらに先を進めば、ジャンヌ・ダルク教会が見えてくる。 それは、とてもモダンな建物で、およそ教会らしくないように見えるが、それでも良くみると、十字架をシンボリックに表現しているようでもある。 (インターネットで調べると、ジャンヌが身につけていた 《兜》 をモチーフにデザインされたらしい。 また、インフォーメーションで貰った説明書では、うろこ状のスレートや銅製の屋根で海をイメージしているという。 §§§ ジャンヌ・ダルク教会 Eglise Jeanne d'Arc 大時計通りは、このジャンヌ・ダルク教会のところで大きく広がり、教会の横には市場がある。 だから、この辺りの賑わいは、観光客というよりも、教会にしても、市場にしても、ここに暮らす人たちの賑わい方のような感じがする。 そして、ジャンヌ・ダルクが理不尽にも火刑に処せられた場所に、この教会は建っているという。 また、その場所を示す十字架が、教会の傍に立てられているらしいが、残念ながら気がつかなかった。 教会には、誰でも入れるようになっていたから、中に入って見た。 一方の壁面の全面がステンドグラスになっていて、それを背にするように司祭用であろう、小さな机が置いてある。
教会レベルでは、このようなものかも知れないが、音楽会でもすれば似合いそうな空間であった。 それでも、16世紀のものという美しいステンドグラスと、静かに、絶え間なく流れてくる厳かな音楽と、現代風ではあるが誰しも心和らぐ思いがするであろう室内の空間と、巧く融合して、まさに異空間にいるようである。 それは、神に祈る場というよりも、むしろ、ジャンヌを悼み、また、彼女の思いに触れる、そして、彼女と共に祈る場であろう。 そして、それこそジャンヌに相応しい。
部屋の片隅に立つ ジャンヌの彫像は ・・・ 大事を成して、また、 成そうとして ・・・ 誇らしげに顔を上げるのではなく、むしろ、 神の示すままに従っただけ ・・・
§§§ 今夜の宿泊地を探して 何だかんだといって、もう五時を過ぎていた。 本来なら、もう、宿を決めていなければならない。 もちろん、このルーアンでも良いわけであるが、今夜の宿泊予定地は、ル・アーブル Le Havre である。 まあ、100km はないし、高速道路で行けば、一時間もかからないと踏んで、出発することにした。 確かに、一時間もかからなくて、ル・アーブルの町が見え出した。 海も見える。 ノルマンディーの海だ。 しかし、想像していたような、ひなびた港町ではなかった。 無数の煙突から煙が棚引く、工業地帯の様相である。 それに、しばらく走り続けても変化がないほど、大きな町であったから、ここでの宿探しは、時間がかかりそうである。 諦めて、エトルタ Etretat に向かうことにした。 エトルタ Etretat は、ノルマンディーの風景として良く利用されている白い断崖絶壁が連なる町である。 海鮮料理も有名だ。 当初は、立ち寄るべく計画していたが、向かうべき方向と逆の位置にあるため、一筆書きのようなコースが取れなくて、予定から外していたところであった。 それでも、今日の内に、エトルタに着けるのであれば、次の日程に大した影響はない、そのまま、ル・アーブルを通過して、進路を北にとる。 ルーアーブルの町を離れると、人家もない、農耕作地帯の様相である。 ここまで来れば、何処でも良い、明るい内に宿を見つけたいと、ベッドのマークの立て看板がないか気をつけながら行く。 それが、行けどもいけども見つからないから、不安になってきた。 それでも、そろそろ、エトルタに着く頃になって、それらしき看板があった。 それを見届けて、エトルタの町に入った。 街中を車で一回りして、めぼしきホテルを訪ねて空き部屋がないか聞いてみた。 海辺の、景色が良い小さなホテルであった。 対応に出てきた男の子の話が要領を得ない。 主ではないから、判断ができないのか、部屋がないのか、良く分からない。 こんなことで時間を取られたくなかったので、イエスか、ノーかと聞くと、ノーという。 まったく、日本人みたいな、思考回路である。 他にも、高級そうなホテルがあったので、最終的には、そこに決めれば、何とかなるだろうと思って、途中で立て看板を見つけていた民宿に引き返すことにした。 立て看板どおり、道を進むと、新興住宅地のような家並みが現れた。 その中の普通の家の前に、宿を示す小さな看板があった。 それも、どの家が、それなのか分からない。 その看板がある以外には、宿とは思えない普通の小さな民家ばかりである。 仕方なく、一番近くの家の門を叩くと、おばさんが現れて、怪訝そうな顔をする。 立て看板を指差して、尋ねると、反対側にある家を指差した。 あそこの家であると教えてくれたようだ。 もちろん、お互い喋りながら会話が進むが、それは通じていないだろう。 それでも、ゼスチャーで言っていることが分かるから、話している気分になるものである。 この住宅地は巧くできていて、車が10台ほど駐車できる広場があり、それに見合う数の家が、それを囲むように建っている。 各家には小さな庭があり、それぞれに草木を植えて、その中に玄関に続く小道がある。 特に高い塀はないから、閉塞感は全くない。 このような区画が集まって、村を構成しているようだ。 特に、農家の様でもないから、日本のサラリーマンのような家庭ではないだろうか。 おばさんは、非常に友好的であつた。 旧知の友を迎えるように、私たちに接してくれた。 フランス語しか話せないが、言っていることは不思議に通じる。 これは通じていないな、と思うようなときに、ワラ、ワラ というように聞こえるから、問題ないよ、と言っているのかも知れない。 このワラ、ワラ という言葉を、このおばさんから、その後、頻発して聞くことになるのだが、未だに本当の意味が分からない。 どなたか、フランス語を解する人がおられたら、教えていただきたい。 このおばさんのように、頻発はしないが、その後、他のところでも何回か聞くことになるが、その度に、このおばさんのことを思い出す。
部屋の中は、マットやら、カバーやらが丸めて、ベッドの上に置いてあった。 まだ、シーズンオフであろう、部屋は整えられてはいなかった。 バス・トイレは室外にあった。 いかにも子供さんがいた部屋のような造りである。 それが、成人して、今は夫婦二人きりの生活に戻っている風である。 この辺りは、海辺に近く、これから夏場に向けて、このような民宿が賑わうのであろう。 最初に訪問した家も、きっと民宿に違いない。 それが、準備ができていないだけであろう。 このおばさん家は、一足先に準備していたのではなかろうか。 《参考》
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