« 鳥紀行 フランス編 (7) | トップページ | 鳥紀行 フランス編 (9) »

鳥紀行 フランス編 (8)




【08】 2004/04/22 ドライブ旅行 2日目 戻る次へ


 cf. 《行程図 フランス編》 参照



§ 2004/04/22 (木) ドライブ旅行 2日目
 朝食の時間がきたのでドアを開けると、丁度、お盆をかかえて、昨日のおじいさんがこちらに向かってくる姿が見えた。 パンとコーヒーとジャムとバターだけの、典型的なコンチネンタルである。

 質素な朝食のようであるが、ラテン系の人の食事スタイルを考えると当然のことである。 夕食は、午後八時以降に摂る。 レストランも、それまでは閉まっていることが多い。 更に、飲むわ、たらふく食べるわ、横で見ていても吃驚する。 そのあと、ケーキも食べる。 それが大きくて甘すぎる。 初めは感激するが、昼食と夕食と、続けて食べて、胃の調子が悪くなった。 これでは、朝は食べれまい。




コンチネンタルと呼ばれる訳
 コンチネンタル continental は、"大陸の" という意味である。 それがどうして、このような朝食のメニューとして使われるようになったのか。

 英国の朝食は、手間ひま掛けた、暖かく調理されたものが普通である。 英国に美味いものがないと言うのなら 「イングリッシュ・ブレックファーストを 1日3回食べるのが良い」 と誰だったか、英国の著名人がいったというから、それが自慢に違いない。


イングリッシュ・ブレックファスト English Breakfast
 英国式朝食のことをいうが、通例ベーコンエッグとマーマレード付きトーストと紅茶などから成る ※5

 cf. アイリッシュ・ブレックファスト Irish Breakfast
 cf. イングリッシュ・ブレックファスト (余談)



 一方、ヨーロッパの主な国々では、暖かいものと言えばコーヒーとミルクぐらいで非常に質素な朝食であることは、前述のとおりだ。 お国柄というしかない。

 そして、英国から見れば、ヨーロッパ大陸の朝食と一緒にされては困るのである。 民宿の "朝食込み" の宿泊料金を単純に比較されては困るのである。 だから、あれは、英国 (島国) のものではなく、ヨーロッパ (大陸の = コンチネンタル) のスタイルのものですよ、と英国スタイルの朝食と一線を画したものであろう。


コンチネンタル・ブレックファースト continental breakfast
 (パンとコーヒーだけの)ヨーロッパ式朝食 ※5






 ところが、英国を旅する人は英国人ばかりではない。 ヨーロッパの人も米国の人もいる。 中には、日頃から質素な朝食を摂る習慣の人もいるであろう。 なのに値の張るイングリッシュ・ブレックファーストの料金を取られたのでは面白くないに違いない。


 英国の民宿に泊まる方は聞かれた方が良い。 イングリッシュ・ブレックファースト english breakfast とコンチネンタル・ブレックファースト continental breakfast を選択できる場合もあるからだ。 また、安いと思ったらコンチネンタルだったりする。




 但し、ヨーロッパで聞くことは野暮というものである。 コンチネンタル・ブレックファーストに決まっている。 ヨーロッパの民宿で、うちはイングリッシュだ、という訳がない。 それでもイタリアやフランスといったラテン系の人が多い国と違って、ドイツなどは、暖かく調理された料理こそ出ないが、ハムやソーセージやゆで卵など品数は豊富で中々のものである。 同じコンチネンタルといっても色々だ。


 私が驚いたのは、五ツ星ホテルの朝食で、わざわざコーンフレークに牛乳をそそいだだけのものを食べていた人がいた。

 私など、料金に見合う分以上の品数を取り揃えて、馬鹿食いしてしまう。 考えてみれば、朝食の料金など気にする人は泊まってはいないのかも知れない。
By New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998








ジベルニーへ
 今日は、ジベルニーへ行くが、ここからニ三十分とか、昨日、主が言っていた。 チェックアウトのために荷物を持って、門のところにある、おじいさんの家に行くと、お土産にと、木製の額縁付きの絵を差し出して、私たちにくれるという。 自分で書いた油絵であるとのこと。 どこかで見たことのある絵であった。 家内はそれを、とても喜んで、それこそ宝物のように取り扱っていた。



 帰国後に分かったが、「青いターバンの少女」 で知られる、フェルメールの 「牛乳を注ぐ女」 の模写であった。 実際の 「牛乳を注ぐ女」 のカンヴァスは 45.4×40.6 cm であるが、それを自分の好みの構図であろう、20x30 cm ほどにトリミングして描いていた。

 どうして、このように好意を寄せてくれたのか分からないが、思い当たるとすれば、お嬢さんに折鶴を折ってあげたことだろうか。 ひょっとして、あの子は、お孫さんかも知れない。

 cf. 忘れられない出逢い












§§ ジベルニー Giverny の 「モネの家」
 ジベルニーへの道は、迷うようなところはなく、駐車場も直ぐに見つかった。 小さな村のようで、どこに 「モネの家」 があるのか見当がつかなかった。

 目立つ建物がない。 どの家も周りの美しい風景に溶け込んでいる。 まだ、団体さんが到着していないから、人の動きもない。 適当に歩き出した。

 何やら案内板があって、矢印が描いてあるから、その方に向かうが、違った。 それに、この先には、それらしきものが、どう見てもなさそうであった。 何のことはない、ひき返したら、直ぐ見つかった。



givernymonet 
『モネの家』 ジベルニー Giverny, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh


 ここは、テレビでも良く観たことがあるから、大体のところは知っている。 モネの書斎も、彼が好んだ日本の浮世絵などを飾った部屋も、記憶にあった。 ゴッホやモジリアニのように、幸せ薄かった生前と打って変わって、死後に有名になることが多い画家達のなかで、モネ (1840-1926) は違った。

 印象派という名前の由来となった、モネの 『印象、日の出 (Impression, soleil levant)』 は、彼の34歳頃の作品であるから、若くして有名人となって、86才で没するまでの長きに渡って、何不自由のない人生を全うした。

 家の前の庭は、バラや様々な草花が植えられて、まるで花園である。 たくさんの植木職人が庭に入って手入れしていた。 道路を隔てて、あの睡蓮の絵を描くため、池のある庭も作られた。 憧れだった日本の庭を想定して造られたという。

 絵になるように作られているから、なるほど、絵になる。 日本画家の千住博だったと思うが、睡蓮を描くためのもので、風景そのものは、庭の外にある周りの自然が素晴らしい、というようなことを言っていた。 そうかも知れない。

 一通り回って、入り口近くの売店へ戻ると、観光客でごった返していた。 日本のおばさん達が、家内が先に並んでいるにもかかわらず、横入りするわ、大声を出すわ、挨拶も返さないわ、と怒っていた。 早々に、次の目的地である、レザンドリーに向かうことにした。 セーヌ川に沿って行く。

《参考》 クロード・モネ財団のホームページ
http://www.fondation-monet.com/














§§ ズアオアトリ


Zuaotori
ズアオアトリ (♀) ジベルニー フランス
Photo by Kohyuh 2004/04/22
【ズアオアトリ】
分類       スズメ目アトリ科
全長        L14.5 W24-28 cm
学名       Fringilla coelebs
英語名      Chaffinch











 この ズアオアトリ ♀ は、ジベルニーにある 「モネの家」 の庭の木にいた。

 写真を撮っていたら、観光客の外国人 (イギリス) が寄ってきて、とてもポピュラーな鳥だと言う。 スズメ並みの鳥を一生懸命撮っていたので、不思議に思ったのかも知れない。 それでも、日本には、いない鳥であるというから、会えて嬉しい。








Giverny
ジベルニー モネの家 2004/04/22 Photo by Kohyuh
 このズアオアトリは、メスで、全てに地味な、淡い色になっている。 ただ、翼の2本の白線は、雌雄とも同じという。

 ズアオアトリは、あまり人を怖がらない様子で、花の蜜でも吸っているのだろうか、同じ木の中を動きまわっていた。












ロビンがいた
 実は、ズアオアトリがいたこの木に ロビン (ヨーロッパコマドリ) がいて、しきりに大きな声でさえずっていたのである。



 コマドリ は、馬 (駒) のいななきに似ているから駒鳥というのが名前の由来だそうである。 聞き做しは、ヒンカラカラカラ ・・・ で、一度聞けば忘れられない。

 ロビンの場合も、ときに、ヒンカラカラカラ ・・・ と聞き做すこともあるが、それは、たまたまであろうか。

 図鑑によると、するどく "tik"と鳴いて、つづけて早く "tik-ik-ik-ik" と英国では聞き做されているようだ。 いずれにしても、ロビンの歌のレパートリーは豊富であり、また歌声も美しいものである。
 
 



 姿も捉えていて、カメラを構え、タイミングを狙っていたら、逃げられた。 ロビンも、こちらでは、普通に観ることが出来ると聞いていたので、今回の旅行で期待していた鳥の一つだった。 姿も観たし、声も聞いたが、今では、もう、よく思い出せないでいる。

 ロビンは、期待していただけに、ピンボケ写真でもいいから欲しかった。 それでも、このときは未だ、旅行の始めの方で、また会えるだろうと、気楽に考えていた。 ところが、姿を見かけはするが、ついに、写真には撮ることは出来なかった。 このとき撮り損ねたのが痛い。 あとで考えると、後にも先にもない、絶好のチャンスであったから。
【補注 2006/08/31】
 このときは気付いていなかったが、レンヌで撮った ロビン の写真が見つかった。
 








 最近、写真を整理していたら、ズアオアトリのオス (写真) と分かったので、ここに記録として留めることにした。 (2004/12/23)


ズアオアトリのオスは美しい
 オスは、顔と腹側のピンク色と冠羽の蒼色と背中の茶色とのコントラストが、とても美しいらしい。 残念ながら、この写真では、役不足ではあるが、面影はあるから、想像に頼ることにする。 「海外ドライブ旅行のすすめ」 で紹介した、あのエトルタ近郊の民宿の庭にいたのを、部屋の窓越しから撮ったものだ。 その時は未だ、名前も知らなかったが・・・、特に美しいという印象もなかった。

 cf. ズアオアトリのオス




 こちらでは、スズメ並にしか思われていないので、この美しさに気付いている人は、少ないという。 八幡市では、カワラヒワ のような存在かも知れない、と言って分かる人は、鳥好きに間違いない。

 また実際に、此処にカワラヒワもいた。 こちらでは、種類が違うのか アオカワラヒワ として、日本のものと区別しているが、素人目では分からない。
















§§ レザンドリー Les Andelys
 レザンドリーへ向かうべく、セーヌ川沿いの田舎道を行くが、それでも大きな町を通過することがある。 こういう場合、スーパーマーケットがあれば立ち寄って、食料品やミネラルウォータ等を仕入れたりするのが良い。 用足しも出来る。 昼飯は、レザンドリーの古城跡で食べる予定であるから、パンや果物やハムを調達した。 珍しそうな、ハムやソーセージなどを見つけると嬉しくなる。 果物も豊富で、西洋梨が安くて美味かったから、これは欠かしたことがない。



 何処だったか忘れたが、こういうショッピングセンタでトイレを探すが見つからなかったことがあった。 店員さんに聞くと、大きな木札の付いたキーを渡され、何処そこにあるという。 バックヤードに通じるところにトイレがあったようで、誰でも自由には入れないように、考えてしているのだろうか。 また、トイレが空いているかどうか、一目で分かるようにしているのだろうか。 何回か経験したが、良く分からない。



 レザンドリー Les Andelys は、セーヌ川が大蛇行 しているところにあり、高台からその様子が見える。 セーヌ川は、サン・ジェルマン・アン・レー付近でも、ジベルニー付近でもまた、同じように大蛇行している。 ただ、見渡せる程の場所がないだけである。 ところが、レザンドリーの丘は、それが出来るという訳だ。 また、そこには、ガイヤール城 Chateau Gaillard の廃墟がある。





les_andelys2 
『セーヌ川の大蛇行』 レザンドリー Les Andelys, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh


 レザンドリーの町に入ると丘の上に城跡らしきものが見えるし、丘を登る道も見えた。 運良く、インフォーメーションセンタが見つかったから、お約束どおりに立ち寄ってみると昼休みであった。 何のことはない、運が悪かった。 そうして、また、不運は続くものである。



 見えているのに、その丘に登る道が分からない。 案内標識のとおりに進むが、行けども、離れていくばかりに思えて、次の標識が出てこない。 というのも、丘に上る歩道も見えるし、実際に、車を下りて確かめたが、まさに、丘に向かっている様子であった。 しかし、残念なことに、車は通れない。 地元の人の散歩コースであろう、お年寄りの人が行き来しているのが見える。 この辺りは、もう、その公園の一部となっている様である。





バン
Les_Andelys-ban
《バン》 レザンドリー Les Andelys
2004/04/22 Photo by Kohyuh



 傍の小さなせせらぎに、バンがいた。 オオバンは、その後、観る機会が多くあったが、バンは、むしろ少ない。

 カメラを向けたときには、既に気付かれていて、いつもの行動パターンどおり、何食わぬ顔をして、お尻を向け、遠ざかっていく途中であった。

 cf. バンの危険回避戦略
 cf. バン 1
 cf. バン 2

















 何処か、この歩道の近くに、車で行ける道があると思うのが普通だろう。 だから、途中で標識を見落としたかと思って、また、元に引き返すのが人情というものだ。 インフォメーションまで戻って、今度こそ、注意深く行くが、同じ結果であった。 これを何回か繰り返したが、駄目であった。 標識はなかった。

 仕方なく、また、元のインフォーメーションに戻って見るが、まだ、ドアは閉まったままであった。 とにかく、こちらの昼休みは長い。 とても待てるものではない。 どうしたものかと、ウロウロしていたら、地図案内の立て看板が見つかった。 引き返さずに、もう少し先へ行くようである。 なるほど、先に進むと、脇道があった。 民家等が密集する街中に入る、一方通行の、とても古城公園に行く道とは思えないものであった。

 そこを抜けると、いかにも公園に到るであろうと思える道が現れた。 そして、丘の頂上まで上って見ると、そこは広い芝生になっていて、見晴らしがすこぶる良い。 下に、古城跡も見えた。 セーヌの大蛇行も見えた。 そして、その古城跡が、周りの風景とマッチして美しい。 この辺りで、弁当を広げたり、遊んだりしている人が多かった。

 欲張って、さらに古城跡に接近しようと、細い道を下っていった。 車一台が通れるほどの、林道の様であったし、坂も急で引き返しは出来そうにもない。 確か、一方通行であった。 道路地図には勾配が15%と書いてある。 古城脇が駐車場になっていて、芝生もあり、昼食には良いが、周りの木々が邪魔をして、眺望が効かないのが残念であった。 さっきの頂上で写真を撮っておけば良かった。



Fertoto 
『ガイヤール城 (廃墟)』 2004/04/22 Photo by Kohyuh


 芝生の上で昼食を広げた。 天気も良く、気持ちが良い。 また、誰もいない。 横には古城跡が見える。 昼食が終わる頃になって、車が一台入ってきた。 元気のよい、中学生であろうか、男の子二人が、道なき斜面を古城の方に駆け上っていく。 私たちも、古城に向かうが、誘導路を行くには、遠回りになることはなはだしい。 行儀が悪いが、子供たちの後を追って、斜面を登って行った。








Les Andelys
セーヌ川の大蛇行 レザンドリー Les_Andelys にて
2004/04/22 Photo by Kohyuh


 ちいさな古城跡ではあるが、有料だった。 それも高かった。 お宝のご開帳が或るわけでもない。 また、歴史に疎い私は、古城そのものに、あまり興味はない。

 ただ、そこからの景色が楽しみであったから、仕方がない、入ることにした。 中では、石段を整えたり、色々と工事の最中で、金もかかっているようだ。 修復費用の足しにもなるのだろう、納得した。








 ここからの眺めは素晴らしかった。 駐車場とは大違いだ。 セーヌ川が大きく蛇行している様子も良く分かる。 ノルマンディー地方特有の白い絶壁が湾曲部に観られた。

 このガイヤール城 (廃墟) を観終わって、道を下っていくと、最終的には、また、インフォーメーションに辿り着いたから訳が分からない。 さすがに、昼休みは終わっていた。 お約束の市内地図などを入手して、次の目的地である、ルーアン Rouen から、今日の宿泊予定地である、ル・アーブル Le Havre へ向かう。 だいぶ時間的ロスをした。 田舎道を気楽に走ってはいられない。 セーヌ川を離れ、国道 N14 を辿ることにした。











§§ ルーアン Rouen
 ルーアンは、フランスの知っている都市の名前を挙げよと言われれば、私は思い浮かべることが出来たであろう。 ジャンヌ・ダルクの映画を観たか何か、そんなところだろうか。 彼女がこの地で火刑に処せられた。 ルーアンの他のことは知らないが、ジャンヌの片鱗には触れてみたいと思っていた。



 彼女はフランスの歴史上の人物の中でも、かなり上位を占めるであろう。 ・・・ といって、彼女のことを良く知っている訳ではない。 何しろ、ジャンヌ・ダルクと言えば、"オルレアンの少女" として有名であるから、当初は、オルレアンとルーアンを混同していた。 だから、私の知識もその程度だった。



 ルーアンのような大都会は、ドライブ旅行では立ち寄りたくはないところである。 交通渋滞はするし、道にも必ず迷うし、ろくなことがない。 町へ入るのは、"City Center" の標識を辿っていけば良いから、ルーアンの町のど真ん中に到着することは容易である。 ところが、そこから、町の外に出るのが難しい。



Centre Ville 【仏】 = City Center 【英】
 市庁舎やインフォーメーションなどがある、市の中心部へ誘導する 《道路標識》 のことである。 どのように大きな町でも、複雑な道路であっても、見事に、そこまで誘導してくれる。 市の中心部へは到達できるが、通り越すと、当然のことながら、この標識は最早現れなくなるから、引き返した方がよい。

 市内の中心部に誘導するのは、行き先が一つであるから容易である。 一方、市外に出るのは、それこそ、何処に行くかによってルートは何本も考えられる。 そして、道路標識も、知名度の高い町だけに限られてくるから、どの道を辿ればよいかは、ある程度先を見越したルートやその近辺の地名を頭に入れておかなければ道に迷うこと、請け合いである。


 なお、英語表記の "City Center" も、それぞれの国の言葉で表記されるから、同じでないのは当然のことである。 それでも、フランス語の表記からもわかるように、よく似たもので、それとなく "City Center" とわかるものである。




 "City Center" なる所に近付けば、今度はパーキングがないか注意して進むのが良い。 そして、見つかれば、迷わずそこに決めるのが良い。 欲を出して、もっと便利なところがないかと進み続けると、今までの経験上、ろくなことがない。 うまい具合に地下駐車場があった。 サン・マルク広場 Place Saint-Marc の地下駐車場であった。 大都会ともなれば、この辺りで駐車するのがお勧めである。 あとは歩くなり、メトロなり公共交通機関を利用する。  もう、午後4時前であった。











§§§ ノートル・ダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame

サン・マクルー教会 Eglise St-Maclou
サン・マクルー教会
サン・マクルー教会 ルーアン
2004/04/22 Photo by Kohyuh
 駐車場から賑やかな方へ歩き出すと、ノルマンディー独特の木骨組の家並みが現れる。 その先には、サン・マクルー教会 Eglise St-Maclou が見える。

 実は、このときは未だ、この教会が、何とかかんとかというゴシック様式の名建築とは知らなかった。

 木造建築で見るからに歴史が感じられる建物であったから、すぐさまカメラを構えたが、シャッターが押せなかった。

 薄汚れて、骸骨やらドクロやらの彫刻が、いたるところに施されているのが眼に入ったからである。

 見ていて気持ちが悪いのである。 私はお化けや幽霊は、小さいときから苦手であった。














お寺の便所は怖かった
 私の疎開先の母方の家は、お寺であり、便所へ行くのに大きな本堂をぐるりと回って行かねばならず、昼間でも怖い思いをした。

 また、父方の家も便所は、庭の片隅にあった。 要するに、一旦家の外に出なければならない。 こんなこともあって、夜中に便所には行けたものではなかった。 そのトラウマが今でも残っている。



 前もって、名建築と知っておれば、無理をしてでも、写真に撮っておくのであるが、予備知識なしであるから仕方がない。 それがノルマンディー様式の建物が立ち並ぶ、小さな通りを撮った写真の中に、このサン・マクルー教会が写っていたと言う次第である。







ノートル・ダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame のこと
rouenstmaclou
ノートル・ダム大聖堂
2004/04/22 Photo by Kohyuh
(クリックで拡大する)
 更に、先へ進むと、これも大聖堂の一部であろうか、とてつもなく高い尖塔が見えた。 ノートル・ダム大聖堂 (ルーアン大聖堂とも言う) である。 そして、この角を曲がれば、その正面広場に出る。

 この広場には、インフォメーションもあり、観光客で賑わっていた。 パリのノートル・ダム大聖堂は、すっきりとした姿であったが、ルーアンのものは、ゴシック様式というのであろうか、ごたごたと装飾が多い。

 そして、正面広場の奥行きが少ないため、私のカメラでは、その全容が捉えられないのが残念である。 大聖堂の中には入らなかった。










 
ルーアンのノートルダム大聖堂 Cathedrale Notre-Dame 2004/04/22 Photo by Kohyuh












§§§ 大時計 Gros Horloge
 ノートル・ダム大聖堂の正面を背に延びる道は、大時計通り R. du Gros Horloge と呼ばれている。 この通りの中ほどにゴシック建築の鐘楼と一体化した、大時計を掲げるアーチ状の門があるからである。 ここは、歩行者天国になっていて、色々なお店が立ち並ぶ、ルーアンの心斎橋といったところかも知れない。



Gros Horloge 
大時計 Gros Horloge
Rouen, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh





 この大時計の針は、一本しかない。 だから、その一本針は、時間を示していることが分かる。 そして、良くみると、下部に扇形の細いスリットがあり、その中に、神話であろうか、何かの絵模様が見えている。

 それが回転しているようで、見る人が観れば、分の単位まで分かるのであろう。 因みに、写真を撮った時刻は、16時42分であったから、この大時計は、今でも正確に動いていると言えそうだ。









Jeanne d'Arc 
ジャンヌ・ダルク教会 Eglise Jeanne d'Arc
Rouen, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh


 そして、さらに先を進めば、ジャンヌ・ダルク教会が見えてくる。 それは、とてもモダンな建物で、およそ教会らしくないように見えるが、それでも良くみると、十字架をシンボリックに表現しているようでもある。 (インターネットで調べると、ジャンヌが身につけていた 《兜》 をモチーフにデザインされたらしい。 また、インフォーメーションで貰った説明書では、うろこ状のスレートや銅製の屋根で海をイメージしているという。











§§§ ジャンヌ・ダルク教会 Eglise Jeanne d'Arc
 大時計通りは、このジャンヌ・ダルク教会のところで大きく広がり、教会の横には市場がある。 だから、この辺りの賑わいは、観光客というよりも、教会にしても、市場にしても、ここに暮らす人たちの賑わい方のような感じがする。

 そして、ジャンヌ・ダルクが理不尽にも火刑に処せられた場所に、この教会は建っているという。 また、その場所を示す十字架が、教会の傍に立てられているらしいが、残念ながら気がつかなかった。

 教会には、誰でも入れるようになっていたから、中に入って見た。 一方の壁面の全面がステンドグラスになっていて、それを背にするように司祭用であろう、小さな机が置いてある。



rouenjehanne3 
ジャンヌ・ダルク教会のステンドグラス
Rouen, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh



rouenjehanne2
ジャンヌ・ダルク教会のステンドグラス
Rouen, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh

 そして、その机を囲むように、礼拝者用の長椅子が扇形に配置されているだけで、きらびやかな祭壇もない、いわゆる聖人の肖像画もない。

 教会レベルでは、このようなものかも知れないが、音楽会でもすれば似合いそうな空間であった。

 それでも、16世紀のものという美しいステンドグラスと、静かに、絶え間なく流れてくる厳かな音楽と、現代風ではあるが誰しも心和らぐ思いがするであろう室内の空間と、巧く融合して、まさに異空間にいるようである。

 それは、神に祈る場というよりも、むしろ、ジャンヌを悼み、また、彼女の思いに触れる、そして、彼女と共に祈る場であろう。

 そして、それこそジャンヌに相応しい。














  ジャンヌの彫像
Rouen-Jehanne4
ジャンヌ・ダルク教会のジャンヌの像 2004/04/22 Photo by Kohyuh

部屋の片隅に立つ
ジャンヌの彫像は ・・・

大事を成して、また、
成そうとして ・・・

誇らしげに顔を上げるのではなく、むしろ、

神の示すままに従っただけ ・・・






 ただ、それだけのことなのにと ・・・ つぶやくようにして ・・・ わずかにうつむき ・・・ つつましく立っていた。


 その姿が、わずか19歳という若さで、理不尽な最後を遂げた、ジャンヌの思いと重なり、なおのこと、胸を打つ。











§§§ 今夜の宿泊地を探して
 何だかんだといって、もう五時を過ぎていた。 本来なら、もう、宿を決めていなければならない。 もちろん、このルーアンでも良いわけであるが、今夜の宿泊予定地は、ル・アーブル Le Havre である。 まあ、100km はないし、高速道路で行けば、一時間もかからないと踏んで、出発することにした。


 確かに、一時間もかからなくて、ル・アーブルの町が見え出した。 海も見える。 ノルマンディーの海だ。 しかし、想像していたような、ひなびた港町ではなかった。 無数の煙突から煙が棚引く、工業地帯の様相である。 それに、しばらく走り続けても変化がないほど、大きな町であったから、ここでの宿探しは、時間がかかりそうである。 諦めて、エトルタ Etretat に向かうことにした。



 エトルタ Etretat は、ノルマンディーの風景として良く利用されている白い断崖絶壁が連なる町である。 海鮮料理も有名だ。 当初は、立ち寄るべく計画していたが、向かうべき方向と逆の位置にあるため、一筆書きのようなコースが取れなくて、予定から外していたところであった。

 それでも、今日の内に、エトルタに着けるのであれば、次の日程に大した影響はない、そのまま、ル・アーブルを通過して、進路を北にとる。 ルーアーブルの町を離れると、人家もない、農耕作地帯の様相である。 ここまで来れば、何処でも良い、明るい内に宿を見つけたいと、ベッドのマークの立て看板がないか気をつけながら行く。

 それが、行けどもいけども見つからないから、不安になってきた。 それでも、そろそろ、エトルタに着く頃になって、それらしき看板があった。 それを見届けて、エトルタの町に入った。



 街中を車で一回りして、めぼしきホテルを訪ねて空き部屋がないか聞いてみた。 海辺の、景色が良い小さなホテルであった。 対応に出てきた男の子の話が要領を得ない。 主ではないから、判断ができないのか、部屋がないのか、良く分からない。


 こんなことで時間を取られたくなかったので、イエスか、ノーかと聞くと、ノーという。 まったく、日本人みたいな、思考回路である。 他にも、高級そうなホテルがあったので、最終的には、そこに決めれば、何とかなるだろうと思って、途中で立て看板を見つけていた民宿に引き返すことにした。





 立て看板どおり、道を進むと、新興住宅地のような家並みが現れた。 その中の普通の家の前に、宿を示す小さな看板があった。 それも、どの家が、それなのか分からない。 その看板がある以外には、宿とは思えない普通の小さな民家ばかりである。

 仕方なく、一番近くの家の門を叩くと、おばさんが現れて、怪訝そうな顔をする。 立て看板を指差して、尋ねると、反対側にある家を指差した。 あそこの家であると教えてくれたようだ。 もちろん、お互い喋りながら会話が進むが、それは通じていないだろう。 それでも、ゼスチャーで言っていることが分かるから、話している気分になるものである。

 言われたとおり、そこまで車で移動して駐車場に止めたところで、我々の会話を聞きつけたのか、先ほどのおばさんが電話連絡してくれたのか、その向かいの家のおばさんが姿を現した。





 この住宅地は巧くできていて、車が10台ほど駐車できる広場があり、それに見合う数の家が、それを囲むように建っている。 各家には小さな庭があり、それぞれに草木を植えて、その中に玄関に続く小道がある。 特に高い塀はないから、閉塞感は全くない。 このような区画が集まって、村を構成しているようだ。 特に、農家の様でもないから、日本のサラリーマンのような家庭ではないだろうか。

 おばさんは、非常に友好的であつた。 旧知の友を迎えるように、私たちに接してくれた。 フランス語しか話せないが、言っていることは不思議に通じる。 これは通じていないな、と思うようなときに、ワラ、ワラ というように聞こえるから、問題ないよ、と言っているのかも知れない。

 このワラ、ワラ という言葉を、このおばさんから、その後、頻発して聞くことになるのだが、未だに本当の意味が分からない。 どなたか、フランス語を解する人がおられたら、教えていただきたい。 このおばさんのように、頻発はしないが、その後、他のところでも何回か聞くことになるが、その度に、このおばさんのことを思い出す。




etretat_restaurant
エトルタの海鮮料理店
etretat, France 2004/04/22 Photo by Kohyuh

 例によって、部屋を見せてもらうと、二階へ案内された。

 部屋の中は、マットやら、カバーやらが丸めて、ベッドの上に置いてあった。

 まだ、シーズンオフであろう、部屋は整えられてはいなかった。

 バス・トイレは室外にあった。 いかにも子供さんがいた部屋のような造りである。

 それが、成人して、今は夫婦二人きりの生活に戻っている風である。

 この辺りは、海辺に近く、これから夏場に向けて、このような民宿が賑わうのであろう。


















 最初に訪問した家も、きっと民宿に違いない。 それが、準備ができていないだけであろう。 このおばさん家は、一足先に準備していたのではなかろうか。

 ベッドメイキングがされていないだけで、後は問題がない状態であった。 ベッドメイキングは自分でするものかと覚悟して、泊めてもらうことにした。

 それが、食事から帰ってきて見ると、見違えるように綺麗にベッドが整えられていた。 私は、ここまで巧くは、できないであろう。



 このほかのエピソードについては、海外ドライブ(1) 《エトルタの民宿》 でも紹介したので、見ていただきたい。







《参考》
M. & MME PIERRE BULAN Chambres D'Hotes
7, ALLEE DU Clos De Rougemare 76790 Le Tilleul
(TEL) 02 35 27 07 55



〔Chambres D'Hotes M. & MME PIERRE BULAN 泊 2004/04/22〕
戻る次へ




Copyright (C) 2004-2017 八幡次郎好酉










« 鳥紀行 フランス編 (7) | トップページ | 鳥紀行 フランス編 (9) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。